毒草の家
2024/07/16
旦那がマスオさんしてて、祖母とまだ同居してた時、隣のお婆さんが嫌な人だった
ゴミが飛んできた、音がうるさいと、心当たりの無い文句もよく言われた
うちが一番困った事は、隣の敷地の雑草。息子がまだ小さく、白い花の毒草が気がかりだったから
でも隣のおばあさんは、その毒草だけは絶対刈ってくれなかった
私は両親を早く亡くし、祖母と私、旦那と息子四人で暮らしていた
旦那の仕事上、職場の近くに越したかったけど、祖母を一人残す事が心配だった
祖母は心配要らない、私は一人でもここに居ると言っていたけど、それはできない
そんな日々の中、、隣のおばあさんが突然亡くなった
見つけたのは自治会の人で、電話をしても出ないから行ったら玄関先で倒れていたという
うちは一番近くに住んでいたから警察の人に嫌味ぽく色々聞かれた。隣のおばあさんは身寄りが無かったらしい
葬式の時、自治会の人に毒草の処分を便乗お願いした事を今も覚えている
その後すぐに祖母がおかしくなった。隣の空き家になったお婆さんの家に出入りし始めた
隣の家の敷地でうろうろしていたり、食事中に「この家は音がうるさいね」と普段からは想像もしない事を言う
そんな日が一週間ほど続いた後、私と旦那と息子が食事中に激しい吐き気に襲われた
どうにか自力で運転して病院に行き処置をしてもらった。毒草の食中毒だった。息子は痙攣状態だった
祖母は食中毒にならなかった。私たちが車で病院に行くとき、私は行かないと言って祖母は私たちを見送った
車に乗った私たちの状態を見て、明日からもご飯作って待ってると場違いに笑った祖母が今思うと変だった
入院中に電話をするたび、祖母は「何でも出来るからご飯して待ってる」と言ったが、変にズレた感じを受けた
退院すると、玄関で祖母が冷たくなっていた。死因は心臓麻痺といわれたが原因は不明で食中毒ではなかった
祖母がなくなったのは私が回復して、最初に病院から電話した頃だというが、その後何度も電話で話している
では、私は誰と話していたのだろうか?
玄関先で倒れている祖母を最初に見たのは私のはずだけど、そのときのことが今でもよく思い出せない
ぼんやり覚えている事は、祖母が着た事もない服を着ていたこと
それは隣のお婆さんがよく着ていた服だった